BIP-361とは、ビットコインの従来型署名(ECDSA/Schnorr)を、あらかじめ期限を告知したうえで段階的に終了させる改善提案です。量子コンピュータに脆弱なアドレスへの送金を禁止し、最終的には従来型署名での支払いに制限をかける内容になっています。
日本語のニュースでは「約170万BTCを凍結する提案」として報じられました。ところが2026年7月20日の改訂で、この核心部分の表現が変わっています。単純な凍結ではなく、正当な所有者だけが引き出せる「救済プロトコル」を課す方向へ修正されました。
この記事では、改訂前と改訂後で何がどう変わったのかを整理したうえで、賛否の論点と個人投資家への影響までまとめます。
BIP-361とは?レガシー署名を段階的に終了させる提案
まずは提案の骨格を押さえましょう。技術仕様というより、移行スケジュールの設計図に近い提案です。
正式名称と6名の著者
BIP-361の正式名称は「Post Quantum Migration and Legacy Signature Sunset」です。日本語にすると「ポスト量子への移行と、レガシー署名の日没」といったところでしょうか。
著者は、Casaの共同創業者として知られるJameson Lopp氏を筆頭に、Christian Papathanasiou氏、Ian Smith氏、Joe Ross氏、Steve Vaile氏、Pierre-Luc Dallaire-Demers氏の6名です。BIP番号が割り当てられたのは2026年2月11日でした。
提案の核心は、著者たち自身の言葉を借りれば「量子対策を個人の損得問題に変える」という発想にあります。アップグレードしなければ自分の資金にアクセスしづらくなる。だから放置せずに動く、という仕掛けですね。
参考:BIP 361: Post Quantum Migration and Legacy Signature Sunset(bitcoin/bips)
BIP-360との違いと関係
量子対策の提案としてよく並べられるBIP-360とは、役割がまったく異なります。混同されやすいので整理しておきましょう。
| 項目 | BIP-360 | BIP-361 |
|---|---|---|
| 目的 | 量子耐性のある新しいアドレス形式を用意する | 従来型署名の使用期限を設定する |
| 性質 | 選択肢を増やす(使うかは任意) | 移行を促す(期限に強制力がある) |
| Type | Standards Track | Informational |
| 論争度 | 比較的おだやか | コミュニティを二分 |
たとえるなら、BIP-360が「新しい避難経路を作る提案」で、BIP-361は「いつまでに避難してくださいと期限を切る提案」です。避難経路そのものに反対する人は少なくても、期限を切る話になると意見が割れる。この構図が論争の背景にあります。
ステータスはDraft、前提となるBIPも未確定
ここは冷静に見ておきたい部分です。BIP-361のステータスはDraft(草案)であり、有効化のスケジュールは決まっていません。
さらに重要なのが、仕様書の「Requires」欄に書かれている内容でしょう。ポスト量子署名を定めるBIPが必要だと記されているのですが、そのBIP自体がまだ存在せず「TBD(未定)」のままなのです。
つまりBIP-361は、土台となる規格が決まる前に「移行の段取り」だけを先に議論している提案だと言えます。実際に動き出すまでには、ポスト量子署名の規格策定という大きな作業が控えています。
2026年7月の改訂でフェーズBの内容が変わった
ここからが、この記事でいちばんお伝えしたい部分です。日本語の解説記事の多くは、改訂前の内容にもとづいています。
改訂前は「署名を無効化して凍結」だった
2026年4月に日本語メディアが一斉に報じた時点では、フェーズBの説明はこうなっていました。ECDSA/Schnorr署名による支払いを無効にし、脆弱なアドレスに残った資金は事実上すべて動かせなくなる、という内容です。
そのうえで、救済策は「フェーズC」として別枠に置かれていました。BIP-39のシードフレーズを持つ正当な所有者が、ゼロ知識証明で所有を示して資金を取り戻す仕組みです。ただし、この段階は「研究・需要・合意しだい(TBD)」という扱いでした。
要するに、凍結は確定していて救済は未定。この構図が「権威主義的で没収的だ」という強い批判を呼んだわけです。
改訂後は「救済プロトコルによる制限」へ
2026年7月20日、正式なBIPリポジトリに掲載されている仕様書が更新されました。現在のフェーズBの記述は、次のように変わっています。
- ECDSA/Schnorr署名での支払いを、量子安全な救済プロトコルによって制限する
- 目的は「脆弱なUTXOからの盗難を防ぐこと」であり、支払いそのものの一律禁止ではない
- ノードは、従来型署名の検証条件を厳しくする
あわせてフェーズCという独立した段階もなくなり、救済の仕組みはフェーズBの中に組み込まれました。仕様書には、救済プロトコルが供給量の大半をカバーできれば「没収的な度合いはごく軽微にとどまる」という趣旨の記述も加わっています。
凍結ありきの設計から、正当な所有者は引き出せる設計へ。方向性が明確に修正されたと見てよいでしょう。
情報が錯綜している理由
厄介なことに、現時点では2つのバージョンが並存しています。読む場所によって説明が違うのは、このためです。
| 掲載場所 | フェーズ構成 | フェーズBの内容 |
|---|---|---|
| 公式BIPリポジトリ(bitcoin/bips) | A・Bの2段階 | 救済プロトコルによる制限 |
| 著者らの解説サイト(bip361.org) | A・B・Cの3段階 | 署名を無効化し事実上凍結 |
草案は今も書き換えられている最中です。数か月前の記事をそのまま信じると、実態とずれた理解になりかねません。BIP-361について調べるときは、記事の日付を必ず確認してください。
参考:BIP-361: Post Quantum Migration and Legacy Signature Sunset(著者らによる解説サイト)
BIP-361の移行スケジュールを整理
公式リポジトリ版にもとづいて、現在示されているスケジュールをまとめます。起点はあくまで「BIP-361が有効化された時点」であり、暦の上の特定の年月日ではない点にご注意ください。
| 段階 | 時期 | 起きること | 影響を受ける人 |
|---|---|---|---|
| フェーズA | 有効化から16万ブロック後(約3年) | 量子脆弱なアドレスへの送金が禁止される。送金先はポスト量子アドレスに限られる | BTCを保有・受領するすべての人 |
| フェーズB | フェーズAから2年後(有効化から通算約5年) | 従来型署名の検証条件が厳格化され、救済プロトコルによる制限がかかる | BTCを保有・受領するすべての人 |
ウォレットへの影響も具体的に書かれています。フェーズAより前は、未対応ウォレットでも送受信ともに問題ありません。フェーズA以降は他のウォレットから受け取れなくなり、送金先も対応済みウォレットに限定されます。フェーズB以降は、送る側と受け取る側の双方が対応済みである必要が生じます。
なぜここまで踏み込むのか?提案の根拠
穏やかとは言えない提案です。著者たちが挙げる根拠を見ていきましょう。
公開鍵が露出したBTCは34%超
仕様書は、2026年3月1日時点で全ビットコインの34%超がオンチェーンに公開鍵を露出させていると述べています。これは著者らの推計であり、ネットワークの公式統計ではありません。
ここで注意したい点があります。日本語の記事の一部に「全BTCの34%超(約170万BTC)」という表記が見られますが、これは異なる2つの数字を混同したものです。
- 34%超:公開鍵が露出したBTC全体の割合。流通量から逆算すると600万〜700万BTC規模
- 約170万BTC:2009〜2011年頃のP2PK形式に眠るぶんだけを数えた数字
両者は10倍近く違います。BIP-361の影響範囲を正しく捉えるうえで、混同は避けたいところです。
攻撃に気づけない「静かな流出」のリスク
仕様書が強調するのは、量子攻撃が派手なハッキングとして表面化するとは限らないという点です。
攻撃者は露出した公開鍵から秘密鍵を計算したあと、すぐには動きません。数週間から数か月かけて少しずつ資金を移せば、チェーンを監視している人々に気づかれにくくなります。能力を隠したまま、静かに抜き取るわけですね。
この場合、いわゆる「Qデイ」が来たと判明するのは、かなり後になってからでしょう。攻撃の兆候を待ってから対応するのでは間に合わない、というのが著者たちの主張です。
さらに、攻撃者の動機が経済的とは限らないという指摘も加えられています。価値の抽出ではなく、ビットコインへの信頼そのものを破壊しにくる相手を想定すべきだ、という立場です。
移行には数年かかるという前提
ビットコインの仕様変更が遅いことは、コミュニティ自身がよく知っています。ウォレット、取引所、マイナー、カストディ業者の足並みをそろえるには、歴史的に何年もかかってきました。
だからこそ、期限を明示した時間割が必要だというのが提案の論理です。締め切りがなければ「そのうちやる」で先送りされ続ける、という現実的な読みが背景にあります。
量子コンピュータの進展についても、マッキンゼーの試算を引きながら、暗号学的に意味のある量子コンピュータが早ければ2027〜2030年に登場しうると述べています。ハードウェアの進歩が緩やかでも、アルゴリズムの改良によって必要な計算資源が下がっている点にも触れられています。
量子コンピュータ側の進捗はどこまで来たか
では、脅威の側はどこまで近づいているのでしょうか。ここは冷静に数字を見ておく必要があります。
Google Quantum AIの研究者らの試算として、ビットコインが使う楕円曲線暗号を破るには論理量子ビットで1,200〜1,450個規模が必要になると報じられました。さらに、それを支える物理的なハードウェアの要件が、従来の想定より約20分の1に下方修正されたとも伝えられています。
ただし、この水準に到達した量子コンピュータは現存しません。実機はまだ何桁も手前にあり、当面ビットコインの鍵が破られる状況にはないと考えてよいでしょう。
それでも警戒感が強まっているのは、ハードウェアの進歩よりアルゴリズムの改良が速いためです。必要な計算資源の見積もりが年々下がっていく以上、安全と言える余白は静かに削られていきます。
救済プロトコルはどう機能するのか
改訂後のフェーズBを理解する鍵が、この救済プロトコルです。発想はシンプルながら、なかなか巧妙にできています。
攻撃者が知り得ない情報を使う
量子コンピュータが破れるのは、公開鍵から秘密鍵を逆算する部分だけです。裏を返せば、公開鍵に現れない情報を攻撃者は手に入れられません。
ここに知識の非対称性が生まれます。仕様書が例に挙げるのが、2012年に導入されたBIP-32のHDウォレットです。強化導出(hardened derivation)を経ている場合、親となる拡張秘密鍵を知っているのは正当な所有者だけになります。
その知識をゼロ知識証明などで示せば、秘密鍵そのものを明かさずに「私が本当の持ち主です」と証明できるわけです。ZK-STARKを使う方式や、コミット・リビール方式の研究が進んでいると記されています。
P2PKだけは救済できない
ただし、この方法ですべてを救えるわけではありません。最も古いP2PK形式の資金は、対象外になります。
理由は単純で、BIP-32が登場する前に作られたUTXOには、そもそもHDウォレットの所有を証明する材料が存在しないからです。仕様書も、P2PKについては知識の非対称性が見当たらないと認めています。
この部分については、別提案である「Hourglass」との併用が想定されています。サトシ・ナカモト氏のものとされるコインの多くはここに含まれるため、論争がもっとも激しくなるのもこの領域でしょう。
コミュニティを二分する賛否
技術的な妥当性以上に、価値観が問われる提案です。主な論点を両論併記で整理します。
賛成派の主張
賛成派の中心にあるのは、放置すればより悪い結果になるという読みです。脆弱なコインが量子攻撃者に奪われて市場に流れ込めば、価格だけでなくビットコインへの信頼そのものが崩れます。
仕様書には、失われたコインが他の保有者の価値をわずかに高めるというサトシ・ナカモト氏の趣旨を引きながら、量子攻撃で復活したコインはその逆に全員から価値を奪う、という対比が示されています。
もうひとつ特徴的なのが、立場ごとに「動く理由」を用意している点です。仕様書では関係者別のインセンティブが整理されています。
| 立場 | 移行する動機として挙げられているもの |
|---|---|
| マイナー | 署名サイズの増加でブロックスペース需要が高まり手数料収入が伸びる。フェーズB以降、未対応のマイナーは無効なブロックを生成してしまう |
| 機関投資家 | 対策を怠ることが株主に対する受託者責任に反しうる。脅威に対処できる資産だと示せる |
| 取引所・カストディ業者 | 量子攻撃を受ければ一夜で破綻しかねない。早期移行は損失や訴訟リスクに比べて安価 |
| 個人保有者 | 期限があることで「そのうちやる」という先送りを防げる |
| 攻撃者 | 期限が近づくほど、盗んだコインを使えなくなり経済的な旨みが減る |
反対派の主張
反対派が問題視するのは、他人の資金を動かせなくする前例をネットワークが作ってしまう点です。検閲耐性と財産の不可侵性という、ビットコインの中核的な価値に触れる話だからでしょう。
開発者のOlaoluwa Osuntokun氏は、ビットコインの根本的な信条を壊すものであり、事実上の富の再分配をもくろむ動きには抵抗すべきだという趣旨の批判を述べたと報じられています。ほかにも、権威主義的で没収的だという厳しい評価が寄せられました。
市場面からの懸念も出ています。検閲耐性を前提に資金を配分してきた運用者が、その前提が崩れたことでポジションの解消を迫られる、という指摘です。
参考:ビットコインの量子耐性移行案「BIP361」のドラフト提案、脆弱アドレス凍結案で議論紛糾(あたらしい経済)
第三の道を探る動き
賛成と反対の中間を探る提案も出てきました。BlockstreamのCEOであるAdam Back氏は、2026年4月のパリ・ブロックチェーン・ウィークで、統制された方法での段階的な移行を支持する立場を示したと報じられています。
同氏の論旨は、ビットコインは過去に致命的なバグを短時間で修正してきた実績があり、脅威が現実化した局面でこそ合意形成が加速する、というものでした。現段階では任意のアップグレードにとどめるべきだという主張です。
BitMEXからは、量子コンピュータの実在が証明されるまで凍結を発動させない「カナリア方式」も代替案として示されました。危機が確認できるまで引き金を引かない設計であり、強制移行への抵抗感を和らげる狙いがあります。
個人投資家への影響と今できること
ここまで読むと不安になるかもしれませんが、急いで何かをする局面ではありません。状況別に整理します。
取引所に預けている場合
国内外の取引所にBTCを預けている方は、基本的に取引所側が対応します。仮にBIP-361が有効化されても、必要な移行作業は事業者の責任範囲で進められるはずです。
ただしフェーズAまでに3年、フェーズBまでに5年という時間軸を踏まえると、対応の巧拙が事業者選びの判断材料になる可能性はあります。今の段階で慌てて移す必要はないものの、将来的な情報開示の姿勢は見ておいて損はないでしょう。
自分で保管している場合
セルフカストディの方が、より直接的な当事者になります。とはいえ、いま取るべき行動はシンプルです。
- アドレスの使い回しをやめ、受け取りのたびに新しいアドレスを使う
- 使っているウォレットがBIP-32のHDウォレットかどうかを確認しておく
- シードフレーズを確実に保管する。救済プロトコルが実現した場合、これが所有の証明になる
逆に、避けたい行動もはっきりしています。慌てて全額を別アドレスへ移すと、手数料の無駄遣いや送金ミスを招きかねません。量子コンピュータよりも、そちらのほうがよほど現実的なリスクです。
BIP-361に関するよくある質問
私のビットコインは凍結されてしまうのですか
現時点では何も決まっていません。BIP-361はDraftのままで、有効化されていないからです。仮に有効化されたとしても、そこから3年間はこれまでどおり使えます。改訂後の仕様では、シードフレーズを保持していれば救済プロトコルで引き出せる方向が示されています。
いつ有効化されるのですか
時期は未定です。前提となるポスト量子署名のBIPがまだ存在せず、そこから議論が必要になります。加えて、ビットコインのソフトフォークはマイナーの支持を得て初めて有効化されるため、合意形成の行方しだいという状況が続きます。
サトシ・ナカモトのコインはどうなりますか
もっとも難しい論点です。該当分の多くはP2PK形式にあり、救済プロトコルの対象外とされています。別提案のHourglassとの併用が検討されているものの、結論には至っていません。
まとめ
BIP-361は、量子コンピュータへの備えとして従来型署名に使用期限を設ける提案です。フェーズAで脆弱なアドレスへの送金を止め、フェーズBで従来型署名の検証条件を厳しくする、という二段構えになっています。
注目すべきは、2026年7月20日の改訂で「凍結」から「救済プロトコルによる制限」へと表現が変わった点でしょう。批判を受けて設計が調整されつつあり、今後もまだ動く可能性が高いと考えられます。
個人としてできる備えは、アドレスの使い回しをやめること、そしてシードフレーズを確実に保管しておくことに尽きます。どちらも費用はかかりません。議論の行方を追いながら、足元の基本を固めておきましょう。

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